都立八柱霊園前のうめ家石材店です。
定休日に映画「ほどなく お別れです」をひとりで観てきました。
http://映画『ほどなく、お別れです』公式サイト https://share.google/5cFSkdJcXMFZamDyd
家族と観たかったのですが、結果的にはひとりで没入することが出来てよかったです。
葬儀社に勤めることになった主人公と関わる人々、また喪主家族に寄り添う主人公の物語でした。
詳しくは映画館でご覧くださいね。
皆さんは、お葬式で喪主になったことがありますか?
私は実の両親を喪主・喪主家族として見送りました。また、義母を喪主家族として見送りました。

<大病を乗り越え、孫の七五三祝 割烹しの田にて>
実は、実の両親の葬儀の記憶そのものは断片的です。
特に実母の葬儀については、当時年末で業務が山積していたこと、
父が退院したばかりで心身ともに万全ではなくサポートが必要だったこと
子供たちがまだ幼かったことなどがありました。
そして、当初2週間くらいの入院のはずが容態が急変し
病院から呼び出されたその日の晩に母が亡くなったことが
心のどこかで受け入れ切れていなかったのだと思います。
棺の中の母の顔を覚えていません。
棺の中に、母が好きだったスーツを入れたことは覚えています。
母との最期の一日はよく覚えています。
病院から呼び出されたその日の午前中はまだ、話すことができ
※入れ歯を外したので歯切れは悪いが会話はできました。
売店に新聞を買いに行く私に向かって
母は「ありがとう」と合掌しました。
午後にはだんだん朦朧とし
その中、家族がかわるがわるお別れにきて
付き添いたがる父を
「明日、生きていたら交代しよう」と説得し帰らせました。
呼吸が荒くなり、最後には静かに息を引き取りました。
夫に電話をし父を連れてきてもらいました。
母に口紅を塗ってあげようとしましたが、うまくできず
看護師さんが「大丈夫ですよ。私がやります」といってくれました。
こみあげてくるものがありましたが
振り向くと、若い担当医の先生が号泣していました。
それを見て、私の涙は引っ込んでしました。
それ以来 私の悲しみ・苦しさは長い間不完全燃焼です。
「うめ家」に帰ってきた母は 店の座敷でで通夜をし、本葬は家族とごく親しい人のみで家族葬にしました。少しでも父の身体的負担を少なく考慮しました。自宅葬のようなものです。店なので、ご近所の方もお別れに来てくださいました。店での通夜は覚えているのですが、やはり本葬はあまり記憶にありません。涙も出ませんでした。
本葬まで父は私に内緒で母のそばで寝ていたそうです。12月の暖のない部屋で。
退院後の診察で「肺炎」と診断され 年末年始を再入院で過ごした父です。
母が亡くなって一番悲しくつらかったのは、間違いなく父です。
「お母さんの分まで長生きしなきゃ」と父に言うと
「俺生きなきゃだめか?」と父。
当時、何言っているんだ!と思った私ですが
今なら、当時の絶望を抱えた父の気持ちが少しわかります。
父まで続けて失いたくなかった私が 父を強引にこの世にとどまらせたのかもしれません。
残酷な娘です。
母が亡くなった後 様々な困難があり 父とは沢山のことを相談し尋ねました。
「大丈夫、やってみろよ」といつも励ましてくれました。
母が亡くなるまでは 父とはそれほど真面目な会話をしたことがありませんでした。
諸事情で旧自宅を解体し、父が一人暮らしをする平屋を建てることになりました。
体調がすぐれず入院となりました。父が入院して心に決めたことがあります。
朝晩必ず病室に顔を出すことです。母は入院あと病院から呼び出しがあるまで見舞いしませんでした。いきなり最後のお別れになったのです。そのことを後悔していたので、息を引き取るときそばにいることができなくでも、朝晩顔を見ることがいつ、「最後のお別れ」になっても後悔しないと心に決めました。
5月のある朝、病院から連絡があり病院に駆けつけた時にはペースメーカーだけが作動していました。前日の夜 顔を観ていたので死の直前に会えなくても納得できました。新居の完成を見ることも住まうこともなく父は母のもとへと旅立ちました。
病院から夫に連絡し店のスケジュールカレンダーを持ってきてもらいました。当直の葬儀屋さんに父の搬送等をお願いし、お客様の予約状況優先で葬儀の段取りをしました。2回目の葬儀ともなると割と冷静に準備できました。地元石材材組合・町内会に連絡すると葬儀のサポート体制をお願いすることができました。父の兄弟にも連絡し、はるばる参列していただきました。おかげで形見分けもスムーズにすることができました。誰に連絡すれば伝わるか日頃のお付き合いからわかっていたのでスムーズでした。親族・仕事関係は把握していましたが、学生時代の友人等は把握していなかったのが残念です。
父の葬儀当日は 子どもたちが 通夜・葬儀がが始まる前の写真を撮っていました。どこかにそのデーターがあるはずなのですが・・・。デジタルになると写真の整理が追い付きませんね。葬儀社さんが「思い出コーナー」を用意してくれました。その時のパネル写真がこちらです。

<穴八幡宮での初詣り 初孫を守るように石段に腰掛ける父>
父の葬儀は割と記憶に残っています。葬儀委員長をしてくださった、当時の八柱霊園石材同業組合長さんの温かいお言葉、最後までの一番後ろの席で父の遺影を見つめていた方、読経してくださった上人(しょうにん)様方々の読経のハーモニーが美しかったこと、父が安らかな表情だったこと、父の葬儀の当日に父の愛猫も火葬したこと、父の兄弟妹がそばにいてくれ安心感があったこと 納得ができた葬儀でした。
義母の葬儀も旧うめ家の座敷で執り行いました。
近くの施設に入所していましたが、コロナ禍で面会の機会があまりありませんでした。
そのため、少しでも一緒に過ごせるように、仕事の途中でも顔を見ることができるように知人の葬儀社さんに依頼しました。葬儀社さんがしつらえてくれている間、子供たちとハスワークをしました。
作った蓮の花は、棺に納めました。家族で棺を囲んでおしゃべりをし食事も店で出前を取りギリギリまで一緒に過ごしました。お付き合いのある上人に読経とお戒名をお願いしました。孫たちが作ったハスの花に乗って浄土へ旅立ったと思います。まさに、手作りの家族葬でした。
3回の喪主・喪主家族を経験して葬儀前後で大切なのは、故人との別れに向き合う時間、悲しみに十分に浸る時間ではないかと思います。
両親・義母は年齢や持病のこともあり「死の予感」はある程度覚悟していました。しかし、「死」は突然にやってくることもあります。「突然の死による別れ」は 残された人々にとってはなかなか受け入れることは難しいと思います。
別れの儀式は「葬儀」だけではありません。
仏教では回忌供養、神道では年祭という 「死による別れ」からの時間の経過を認識する儀式があります。それは お墓やお寺、仏壇・神徒壇(神道の祭壇)の前で儀式が行われます。その儀式をすることで「死による別れ」を少しずつ受け入れることが出来いるのではないでしょうか?
やがて「死による別れ」を受け入れながら、お墓にいるその人に会いに来るようになります。
月命日にお墓参りをする人、人生の区切りごとにお墓参りをする人、季節ごとにお墓参りをする人さまざまです。
私は なんとなく、愚痴を聞いてほしくてお墓参りすることもあります。
何でも簡略化が進む昨今ですが
葬儀という別れの儀式は、残された人が明日への一歩を踏み出すために必要なことだと思います。「ほどなくお別れです」という映画を観てあらためて そう思いました。
お墓もまた、故人と向き合う大切な墓所であると思います。
石材店は、この葬儀の後のサポートをしています。
長いお付き合いのお客様がお亡くなりになったときはやはりとても悲しい気持ちになります。しかし、一番悲しいのは残されたご家族です。どんなに切なく悲しくてもお客様に涙は見せません。お客様が安心して悲しみに浸る、涙を流せる場所と環境を調えるのも石材店の仕事です。残されたご家族が 明日に向かって一歩を踏み出せるようにお墓に関わる仕事をさせていただいています。
備忘録のように自身の葬儀の想い出を語ってしまいました。
本日も最後まで読んでいただきありがとうございました。
